Action活動レポート

「教育旅行の未来」~第2章:教育旅行の歴・・・

修学旅行は、明治から大正、そして昭和、平成へ移る歴史の中でその意義や形態が大きく変遷し、戦後の学習指導要領の変容にその目的や目的地の選択まで左右されてきた。

(1) 黎明期の修学旅行

修学旅行のはじまりは諸説あるが、公益財団法人日本修学旅行協会⁴⁾によると明治19(1886)年に東京師範学校(現筑波大学)が、千葉県下に「一ハ兵式操練ヲ演習セシメ、一ハ実地に就イテ学術ヲ研究セシムルノ目的」で長途遠足を行う、とあるのが最初としている。この旅行は「行軍」の計画に対して、「学術研究」及び「教育」的配慮を加えて実施したものだ。その報告書には一日約28㎞の行程を徒歩で移動し、生徒の疲労が激しく学術・教育的な配慮などはできず、事前の計画はもっと緻密にすべきであったという反省のもとに、一日20㎞の行程とし余裕ある計画が必要だとしている。明治維新後、混乱期を経て富国強兵の方針のもとに軍事教練的な構成を中心に体力増強と集団行動の訓練をしながら千葉方面の歴史・文化、民俗や科学に至る知識の習得を目指したものであったようだ。

「修学旅行」の公文書への初見は、明治20年に東京尋常師範学校長が「修学旅行之儀ニ付伺(明治20年 府稟)当校生徒修学及兵式体操演習ノ為来月(12月5日)出発便地ニ二泊シ南北豊島郡南足立郡等ノ地方ニ旅行ノ為致度此段相伺候也」との書状を東京府知事に提出しているのが最初となる。ここでも師範学校が軍事教練的な徒歩旅行を地域の文物の見学等を絡ませて実施しようとしたものだ。第三高等中学校が奈良方面へ、山梨県女子師範学校が京都、三重の修学旅行を実施したという記述も現れる。

(2) 拡大基調の修学旅行

明治25年ごろになると修学旅行の意義づけが定着し、教員と生徒の共同生活において自然環境の中で心身を鍛え、知見を広めてゆくことを推奨するようになった。修学旅行費用のうち食費以外は支給すると滋賀県は通達を出すなど全国的な広がりを見せ、修学旅行の効用を認めてゆく時代となった。明治29年に長崎商業が上海へ修学旅行に出かけたのが日本の海外修学旅行の始まりとされ、日露戦争、第一次大戦を経て朝鮮半島から満州方面への修学旅行も数多く実施された。明治39年に文部省、陸軍省合同で日露戦争の戦跡巡りを実施。全国の選抜された中学生が参加したことが引き金となった。

(3) 鉄道の利用と旅行の規制

明治32年には鉄道運賃の団体割引が始まり、片道40km以上の乗車に対し、300名以上の団体は5割引きなどの措置が取られ、修学旅行実施に拍車がかかった。しかし、明治33年頃より修学旅行の禁止・制限の訓令などが発出される事例が多くみられる。あまりに急速に普及し、学校ごとに自由に行程を組むなど、その目的自体を疑問視する意見が出始めたからだ。泊数や旅費規程、参加心得などが指定され、許可制となった県も数多くあった。

大正期に入ると、京都、奈良、三重方面への修学旅行では伊勢神宮や天皇陵を参拝することが義務付けられた。大正末期以後は現役将校が各学校へ配置され軍国主義と天皇崇拝の時代の流れが修学旅行にまで及ぶようになった。 昭和になると、中学校では北東アジアや台湾への修学旅行が隆盛となり、小学校は伊勢神宮への参拝を目的とすることの通達と、鉄道省の大幅な運賃割引施策などにより実施を奨励された。その後、太平洋戦争への道のりの中で修学旅行も禁止されることとなった。

(4) 修学旅行の復活

敗戦後、早くも昭和21年には群馬県立高崎商業学校が日光への修学旅行を実施。岡山県矢掛中学は大阪、奈良、京都への修学旅行を実施した記録がある。一方で、国の経済状況や保護者の時節柄の立場もわきまえて自粛するよう通達を出す自治体も少なからず見られた。昭和25年頃より各地で実施緩和の機運となり、全国的に復活の流れとなった。昭和27年には修学旅行専用列車が運行され、昭和29年には修学旅行連合輸送が始まり、昭和33年には「ひので」・「きぼう」という修学旅行専用列車を建造、運行する運びとなっていった。

一方で、実施に際して安全確認を行わなかったり、無謀な計画だったりで事故が頻繁に起きた。昭和29年に相模湖で麻布学園中学校が遊覧船の沈没で22名死亡。昭和30年には国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が沈没し、高知、愛媛、広島、島根の小・中学生が109名亡くなるなどの事故が相次いだ。文部省は「修学旅行協議会」を開催し、修学旅行の安全確保や意義の再確認などを諮問し、引率体制の確立や実施時期の分散などの通達を出した。また、「修学旅行の手引」を発行し、修学旅行の計画、実施、事後の指導に至るまでを指導している。

(5) 学習指導要領による修学旅行の位置づけ

昭和33年には学校教育法施行規則の一部が改正され、小・中学校の「学習指導要領」に学校行事等が位置付けられ、「学校が計画し、実施する教育活動」として認められた。修学旅行が正規の授業となり、その勢いは増し、国鉄の修学旅行専用列車「こまどり」、「とびうめ」、「おもいで」などというネーミングの専用列車が全国各地で誕生した。城山三郎氏の小説「臨3311に乗れ」⁵⁾はこの時代の物語である。

昭和44年には学習指導要領の改訂で、修学旅行は「特別活動」の「修学旅行的行事」として位置付けられ、この中に「遠足、修学旅行、集団宿泊など」が含まれた。

(6) ツーリズム成長期の修学旅行

高度成長期の日本経済に倣いツーリズムの進展も著しく、「テンミリオン計画」や「リゾート法」などの政策とともに旅行・観光の在り方も国民の中で大きな変化を遂げ、昭和45年の大阪国際万国博覧会を契機に修学旅行も大きく変わっていった。東京オリンピックの年に開通した新幹線を利用したり、大型機材の運用が始まった航空機の利用もでてきた。また、韓国や東南アジア地域への修学旅行が実施されるようになった。昭和58年には北海道酪農学園大学付属高校が初めてのヨーロッパ修学旅行を実施した。

一方で、昭和63年には中国上海での高知学芸高校の列車事故なども発生し、修学旅行の目的や意義が再び検討される時代となった。

(7) 筆者の体験した修学旅行の現場

筆者は昭和58(1983)年の日本交通公社(現JTB)入社以来、広島、岡山を中心に教育旅行[1]の営業担当として最前線で市場開拓を進めてきた経歴があり、この頃より現在にいたるまでの教育旅行の変遷は実体験として記すことになる。 昭和58年当時は旧態依然の物見遊山的な団体行動、つまりはバスガイドの旗の誘導で観光地をめぐり、社寺を参拝するという形態が普通だった。ところが、バブル景気と学校教育の国際化が叫ばれ、学習指導要領の改訂もあいまって修学旅行の見直しの機運が高まった。さらには学校現場にまでCIならぬSI(School Identity)の波が押し寄せ、校名変更、新制服の採用などで生徒募集のPRの時代でもあった。切り札となったのが修学旅行の方面変更と海外語学研修だ。バブル崩壊後も教育旅行市場はその衰えを知るところなく、旅費は高く、遠くへ長期に行く教育旅行の時代となった。夏休み期間中は学校ごとにイギリスやカナダ、オーストラリアへの語学研修を実施。親が子どもに参加を望む事態を生み出していった。修学旅行も広島空港にシンガポール航空が乗り入れたことで大挙して動いたり、ホノルル線が就航すると県立高校がハワイに行く動きも出るなど、その傾向は一時下火になったものの、ここ数年復活の兆しが見えている。


[1] 修学旅行と教育旅行の違いは、教育旅行は修学旅行以外の遠足や集団宿泊行事、あるいは海外研修などの行事を総称して昭和60年ごろから使われ始めたものである。

(8) 学習指導要領の意図する修学旅行の意義と目的

学習指導要領の中で「ゆとり教育」と呼ばれる昭和52・53年改訂の「ゆとりある充実した学校生活の実現=学習負担の適正化」の項目で、学校現場が混乱した。主要教科の授業を減らし、「人権学習」・「環境学習」・「国際化教育」をその課程に入れるというものだった。進学を第一とする進学校は、それぞれを社会、理科、英語の授業と解釈し、学校独自にカリキュラムを組むところもあった。しかし、公立中学校の中にはその趣旨を理解し、学習活動の中に何かしらのプログラムを求めていた。当時倉敷支店で教育旅行の責任者を務めていた筆者は、修学旅行でこれらを解決すべく辿り着いたのが沖縄だった。岡山からの直行便があり、これまでの長崎を中心とした北九州地区に比べて多少の料金アップで実施できることを示した。この1990年代後半の沖縄行きの流れが現在に続いている。人権学習は沖縄戦、環境学習はサンゴやイノー(礁池)の観察、そして国際化は米軍との共存と中国、台湾、東南アジア諸国との歴史上の関連性などもテーマとした。3つの課題を解決できる目的地として。

その後、学習指導要領は「生きる力」を求め、体験学習的な要素が強く求められ、総合学習に時間設定をし、修学旅行の事前・事後の学習や地域の探求が求められるようになった。「主体的・対話的な深い学び」という視点が重要なポイントとなる中で旅行会社は対応策として「民泊」というプログラムを提案した。農林水産省の主導する「農泊」である。農山漁村の農漁業従事者の家庭で家族として過ごす時間の提供だ。家業の手伝いや共同炊事などを含む農漁家での暮らし体験の中で、日常生活では味わえない地域の生活・文化、食や慣習の違いなどを五感で感じ、人々との交流を重要視するものである。地域の人の生きる力を実体験の中で学ぶというプログラムが沖縄、九州を中心に展開され、全国に伝播している。       
2020年度安田女子大学紀要の「農泊と観光」(筆者著)にその詳細を記している⁶⁾。

図1に示す学習指導要領の改訂に合わせて学校現場はその適応のために、あるいは生徒募集の要件として教育旅行を進化させてきた。その陰には教育旅行を巧みに提案してきた旅行会社の戦略もある。ただし、グローバル化の社会で、ましてや新型コロナウイルス感染症の影響する現在、学校教育上、教育旅行の存在価値も再検討する時機となった。

【引用文献】

4.公益財団法人日本修学旅行協会教育旅行年報「データブック2019修学旅行の歴史」(2019)

5.城山三郎「臨3311に乗れ」集英社文庫(1980)

6.田村秀昭「農泊と観光」安田女子大学紀要 第48号pp.267-275(2020)